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シリーズ第5回:メディア論:スクリーンを介する体験と「リアルの再定義」

はじめに:なぜ「スクリーン越し」が当たり前になったのか

前回は、社会学的視点から「なぜ私たちは体験よりも記録を優先し、SNSにシェアするのか?」を論じた。そこでは、スペクタクル社会・記号消費・儀礼的相互行為・監視社会といった複数の理論的枠組みが浮き彫りになった。本稿では、メディア論の観点からこの現象をさらに深掘りする。コンサート会場やスポーツ観戦、観光地などで、人々がスマートフォンの「画面越し」に物事を捉える行動は、現代メディア環境そのものが生み出した特徴といえる。

  • スクリーンが“目の代わり”になりつつある現代では、現実の出来事すら「コンテンツ化」され、記録・再生・共有が容易になった。
  • そうしたテクノロジーが私たちの現実感覚をどう変えているのか、さらには“監視社会”との関連も踏まえながら考察を進めたい。

マーシャル・マクルーハン:メディアは「人間の拡張」である

「The medium is the message」

カナダのメディア理論家マーシャル・マクルーハン (Marshall McLuhan) は、『Understanding Media: The Extensions of Man』(1964) 1 の中で、「メディアは人間の感覚や身体機能を拡張する装置である」と唱えた。よく知られるフレーズ“The medium is the message”は、メディアの形態それ自体が社会や文化を大きく変えてしまうという主張を端的に表している。

  • スクリーンという拡張器官スマートフォンは私たちの「視覚の延長線上」にあるツールだ。ライブやスポーツ観戦を肉眼で見るのではなく、画面越しに見ることは、人間の視覚がデバイスへと一部委譲されているともいえる。
  • 現実との接点を再規定マクルーハンの理論からすれば、私たちが画面を通して見ている時点で、そこでは“メッセージ”自体がすでに変形されている。生の出来事とデジタル映像は同質ではなく、スクリーンが生の体験を独自の形に“翻訳”しているわけだ。

スマホ時代の「ホット/クール」メディア再考

マクルーハンはメディアを「ホット (Hot)」と「クール (Cool)」に区分し、情報量や参加度の違いを論じた 1。

  • テレビや写真(当時の議論)をクール・メディアとして捉え、受け手の能動的補完が必要とした。
  • しかし、現代のスマートフォンは、高解像度の動画/画像+リアルタイム通信+インタラクションを同時に可能にするため、一概に“ホット”か“クール”かだけでは割り切れない複合的メディアとなっている。

観客はスクリーン越しにコンテンツを楽しみつつ、自らも撮影・発信者として積極的に関与できる。この複雑なメディア体験が、現場の“いま・ここ”を新たな形に作り変えている。

リアリティの再定義:「スクリーンに映ることこそが現実」に?

コンテンツ化される「リアル」

デジタル端末を通じた写真・動画が、本来“一度きり”であるはずのライブやスポーツの瞬間を、複数の視点から無数に記録し、かつ瞬時に拡散する状況を作り出した。これにより、

  • 「その場にいること自体」の希少性が相対的に下がり、映像や写真として共有された“コンテンツ”が多くの人にとっての“本物”になりやすい。
  • 生で見るより「映像の方が鮮明」「いろんな角度から見られる」といった意見を聞くとき、リアルよりもコンテンツを上位に置く傾向が表れている。

ボルター&グルシンの「リメディエーション」

メディア研究者のジェイ・デイヴィッド・ボルターとリチャード・グルシン (Bolter & Grusin) は『Remediation: Understanding New Media』(1999) 2 で、「新しいメディアは古いメディア形式を取り込み、別の形で再提示する」現象を“リメディエーション (Remediation)”と呼んだ。

  • SNSへのライブ動画投稿は、かつてのテレビ中継のようなマスメディア的役割を個人レベルで担う例といえる。
  • 同時に、視聴者は「ライブ感を味わいたい」一方、「リプレイや編集」を求める欲望をも併せ持つ。
  • この相反する欲望(即時性と再編集性)が、“スクリーン越しこそ本番”という逆転を招くことすらある。

監視社会との交差:「いつでも撮られる/撮る」時代

シェアと監視の二重構造

前回の社会学的視点で述べたように、監視社会は「撮る者」と「撮られる者」の構造によって特徴づけられるが、メディア論的にはさらに踏み込み、スクリーンが監視の認識を強化する点に注目できる。

  • スマホカメラを向けるだけで、他者のプライベートな姿を瞬時に切り取り、“永久保存”かつ“世界発信”が可能になる。
  • 「撮られる側」は、絶えず「スクリーンに収まるかもしれない」という意識を持ち、自分自身を演出するようになる。

シャシ・ズボフの「監視資本主義」論

経済学・社会学の分野で論じられるシャシ・ズボフ (Shoshana Zuboff) の『監視資本主義』(The Age of Surveillance Capitalism) 3 は、デジタルプラットフォームがユーザーの行動データを収集・分析・商品化する仕組みを批判的に考察している。

  • メディア論から見ても、「撮影してSNSにアップする」という行為は、プラットフォーム企業にとってはビッグデータを蓄積する一大ソースとなる。
  • ユーザーは「スクリーンを介して自発的に監視に加担している」という矛盾を抱えながら、自分と他者の“コンテンツ”を生み出す。

こうした構造を見ると、ライブやスポーツイベントでスマホを構える行為も、単に「思い出を残す」だけではなく、巨大な監視市場にデータを提供する社会行為とも言えよう。

デバイスへの「没入」と「身体性」の喪失・再構築

スクリーンへの没入が奪うもの

スクリーンが私たちの視覚を拡張し、遠方の知人とも瞬時に共有できるメリットは大きい。一方、前回の哲学的考察や心理学的視点を合わせて考えれば、スクリーン越しで撮影に没頭することで失われる可能性のある要素がある。

  • 身体的没入感: ライブやスポーツ観戦の醍醐味は、音・振動・熱気など五感で感じる“生の身体性”にある。しかし、カメラフレームに集中すると、聴覚・触覚への意識が希薄になることも多い。
  • 周囲との連帯感: スクリーンに視線を落とすことで、隣にいる観客同士の一体感や、演者とのアイコンタクトを失いがち。

新たな拡張体験の可能性

しかし、メディアは常にプラス面とマイナス面を併せ持つとされる。

  • AR(拡張現実)やMR(複合現実)の技術がさらに進歩すれば、“スクリーン越し”でありながらも周囲の情報や身体感覚をシームレスに補強する場面も出てくるかもしれない。
  • すでに一部の音楽フェスやスポーツイベントでは、ARゴーグルやアプリを使用して“現場とバーチャル”を融合させた体験が試みられている。
  • 没入と共有、生の身体性とデジタル可視化のバランスを探る試行錯誤が続く中で、スクリーン文化が新しい地平を切り開く可能性もある。

おわりに:スクリーンに依存しすぎた先に何があるのか

メディア論的視点が教えてくれるのは、デバイスやメディアの形態が人間の行動様式・認知様式を大きく書き換えるという事実である。

  • マクルーハンの時代以上に高性能化・インタラクティブ化したスクリーンは、私たちの「いま・ここ」感覚を大幅に改変している。
  • スクリーンを通じて“リアル以上に鮮明”な映像を得られる一方、身体でしか得られないリアリティや周囲との生の交流が希薄化しやすい。
  • また、撮影行為そのものが巨大な監視・データ収集の枠組みに組み込まれている点も、テクノロジーと社会の複雑な絡み合いを表している。

私たちが今後スクリーンとどう向き合うかは、単に「撮影をやめる/続ける」という二択ではなく、どのような体験価値を重視するかという文化的・価値観的な選択にかかっている。次回は、技術史や文化史の観点から、カメラやビデオが一般化する以前と以後で人間の体験がいかに変遷したかを振り返りつつ、現在の「記録=体験」時代を位置づける予定である。

参考文献

  1. 1McLuhan, M. (1964). Understanding Media: The Extensions of Man. McGraw-Hill.
  2. 2Bolter, J. D., & Grusin, R. (1999). Remediation: Understanding New Media. MIT Press.
  3. 3Zuboff, S. (2019). The Age of Surveillance Capitalism: The Fight for a Human Future at the New Frontier of Power. PublicAffairs.(次回:技術史・文化史編へ続く)

この記事を書いた人

岡本 賢

医師。愛育病院で小児科の臨床に立つかたわら、日経メディカルで連載。CrossFit Level 1 Trainer の資格を持ち、HYROX にも出場する。Business Athlete Club では、運動・睡眠・栄養の研究を、働く人の毎日の選択に訳して届けている。

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